失ったとみるのか、手放したとみるのか。

インド・マイソールでの練習も残すところひと月をきりました。
11月は言葉では現せないほど様々な出来事が起こり、様々なエネルギーがインド国内や僕らの周りに渦巻いていました。
ご存知の方もいるかもしれないけれど、インドの高額紙幣が突如紙切れと化し、インド国民のほとんどが混乱の渦中にいた。
日本で言うのであれば、突如明日から1000円、5000円、1万円札がただの紙切れになりますよーとアナウンスされたような感じ。
そんな大規模なことから身の回りに起こる様々なことまで。
とにかく怒涛のひと月ではありましたが、今は何とか落ち着き相変わらず毎日を楽しんでおります。
これから書かれることを読んでもらう前に、ひとつだけ言っておきたいことがあります。
「結局僕はハッピーで、どんなことがあっても毎日は輝いているし、幸せに満ちている。僕は今日もHappyです。」
人によってはちょっとショッキングな出来事かもしれないが、ある出来事を体験してまたヨガというものの奥深さを知った。
今日はそんな話。
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僕のことを知る人であれば、ご存知の方も多いかもしれないけれど、僕はかなり食にはうるさい。
それは料理の上手さであったり、味付けのセンスの良さをどうこう言うという意味合いではなく、僕らにとってどんな食べ物や食べ方が幸せで豊かな食事なのか。
それは人それぞれ違うし、僕の考えがすべてだということでもない。
ただ、食べるということをもっともっと多くの人に考えてもらいたい。
僕はそういった想いをずっとずっと持ちながら生きている。
食とヨガは切っても切れない関係だし、食を考えてもらうのにヨガはとても分かりやすいツールだし、食が変われば、生き方だって間違いなく変わる。
僕の生活なんて、一言で言えば、
豊かな食事をとり、ヨガをして、自然に敬意をもって自然と遊ぶ。
これ以外のことはほとんどしてないんじゃないかというほど。
まぁ僕の生活なんてこんなもんだ。
でも、それくらい食事を大切に生きてきている。
時間や手間、愛情ががかけられた食べ物がいかにパワフルでエネルギーに満ちているか。
時間がないからと済ませ手に入れた食材や食事がどれだけ身体や精神を傷つけているのか。
言葉で言うことは簡単だし、誰でも分かっている。
だから僕のライフスタイルから何かを感じてもらえればと僕は僕なりの食を体現している 。
昨年まで住んでいた京都では「社会福祉法人オリーブの会」の協力のもと、仲間とともに食に関するワークショップやライフスタイルを提唱した活動を「ドニさんの家」というスペースで約2年に渡り行い、ただ僕はそこに住みながら食とカラダを見直してもらえるように生活をしていた。
主催していた仲間の活動のおかげで、この活動は全国の福祉施設の活動の中でも大賞を受賞したほど。
今調べてたらYahooニュースにもでてた。笑
食事に関してはいくらあっても時間が足りないので、ぜひまたそんな話はどこかで。
兎にも角にも、僕は食べることをずっと考えながら生きている。
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話は戻り、インド。
約2週間ほど前の11月後半。
僕はとあるアクシデントにより人生で初めて入院をすることになった。
とある不注意によって三半規管と耳石のトラブルを起こし、起き上がることができないほどのめまいに見舞われることとなったのだ。
精密検査ののち、数日で退院はしたものの、自宅療養を余儀なくされ、ヨガの練習をしにインドに来てはいるものの約1週間ベッドの上で過ごした。
それからも歩くこともままならない日々が続いたが、約2週間を経て、多くの仲間や人々の助けのおかげでようやく少しずつ練習も再開できるように戻ってきた。
人生で初めてこれだけ長いことベッドの上で寝る生活を過ごし、当たり前ではあるが改めて健康って素晴らしいなって身をもって体験したのである。
もちろんこのアクシデントからもたくさんのことを学んだので後悔はないし、変な話このくらいで済んで本当に良かった。
歩くこともほとんどできなかったため、この2週間で驚くほど筋肉は硬直し、衰えていった。
復帰後の練習もまずは、めまいを起こさぬように筋肉を徐々に取り戻すところから始まった。
ゆっくり、ゆっくりと。
それでも練習できるという喜びは僕にとっては計り知れないものであった。
やっぱり毎日のヨガが僕には必要で何より大好きだ。
そんなリハビリ生活の中、食欲も取り戻したある頃、あることに気づいたのである。
香りと味覚がなくなっているということに。
アクシデントの際、後頭部を打ち、左耳が聞こえずらくなっていたことはすぐに気づいていたけれど、めまいの中ほとんど食事もとれず、とれたとしても頭の中はグラグラなので味まで気にすることは出来ず、食べることに必死だった日々ではそれらになかなか気づくことができなかったのである。
難聴の症状と同様、時間をかけて回復するだろうなと思いながらも、少し気になったのでインターネットで調べてみると、嗅覚、そして嗅覚によって感じられる味覚を司る神経は非常に弱く、特に頭部にダメージを受けることで損傷しやすい。
そして一度損傷した神経は基本的に治ることは難しい。
いろいろと調べてみても、どこでも書いてあることは基本的同じだ。
正直、これを見たとき、マジか。と一瞬思った。
でも、まぁ一瞬そうは思ったけれど、その少し後には
まぁしょうがないか、なってしまったものはなってしまったものなのだから。と割とすぐに受け入れることができた。
この時、僕は心の底からヨガをしていてよかったと思った。
むしろこうなる日のためにヨガに出会ったのであろうとも思ったほどだ。
普段は海や山で遊び、できるだけ怪我はしたくはないけれど、危険と安全のギリギリのラインを楽しむ快感が好きなことも事実。
ありがたいことに今まで大きな怪我なく遊んできたけれど、これからどうなるかそれは今の段階では分かったことではない。
それでも大なり小なりの怪我はこれからも起こるのだろう。
今回のこの状況で僕はヨガに救われたのだ。
いや、僕の生活は常にヨガによって救われている。
でも今回のこの出来事はそれをわかりやすく体感できたのだ。
この人生で起こることはもう決められている。
僕は日々のヨガを通して心からそう思って生きている。
もちろん普段の行いでそれは変わるのだけれど、その変わることももう既に決まっている。
だから何か見返りを持って行動しようが、もう返ってくるものは決まっているのだから見返りを求めることに意味はない。
だからと言って何もせずして、よい道には繋がるわけでもなく、するべきことをしていれば、おのずと自分の歩む道がやってくる。
このアクシデントは既に用意されていたものなのだ。
だからそれに心を乱され落ち込んでも無意味だ。
もし仮に今回のアクシデントを避けられたとしても、別の形で感覚は失うことになっていただろう。
ただ、僕はヨガとこれまで深々に向き合ってきたことで強い確信を持っている。
ヨガのエネルギーと人体の可能性は未知であると。
僕はこれまでヨガによってこれまで知ることのない未知なる感覚をたくさん体験してきた。
西洋医学では一度損傷した神経が戻ることはないと言おうとも、
僕はヨガや瞑想、呼吸法により多分治るのであろうという自信がある。多分ね。
それは、これまでヨガや呼吸法、瞑想と向き合ってきたからこそ言えること。
なので感覚が戻らないと知ったときも、ちょっとばかり他人事のような感覚になった。
だって僕はヨガという生き方を選んだのだから。
まぁ、いいや。やることさえしていれば、なるようになるさと。
もし、感覚が戻らなかったとしてもそれはそれ。
そうゆう道が用意されていたのだから、それを楽しめばいいだけだ。
またそれはきっと新たな素晴らしい感覚を僕に与えてくれることになるだろう。
食べるという行為では、僕はなにより食べ物に宿るエネルギーを大切にし、身体にお供えしている。
以前のブログにも書いたかもしれないが、僕らはエネルギーを食べているのだ。
それは栄養というわけだけではなく、そこにはどんな想いが詰め込まれているのか、一緒にその場にいる人がどのようなエネルギーを新たに生み出してくれるのか。
味やニオイが分からなくなったことで、今まで気付くことのできなかった部分のエネルギーにまできっと感覚が研ぎ澄まされていくに違いない。こうならなければきっと気づけない更なる感覚が人体には備わっているはずだ。
それはもっと食べるという本質の感覚に近づいた食事になるであろう。
味では得られない快感が間違いなくそこにはある。
味によって隠されていた感覚がまた目覚め始める。
これによって僕はきっともっと食事が好きになるだろうし、なかなか見ることのできない世界を伝えることができるようになるかもしれない。
僕はもっとダイレクトに食の美しさや愛情、エネルギーを感じ取ることができるようになるだろう。
食を大切にしてきたからこそ、感覚を手放し、それを教えてもらえたのだと思う。
まぁ、ヨガをしていれば感覚は戻るとも信じているし、正直もどってきたら嬉しい。
感覚が戻った後もこの新たな気づきと感覚を大切にして食事を楽しめる。
これからもヨガは今まで通りに練習するし、とりあえずアーユルヴェーダも試してみようと思う。
アーユルヴェーダもヴェーダから成る知識であり、大雑把に言ってしまえばヨガだ。
入院の時はお世話になってとても感謝はしているが、今後は西洋医学には頼るつもりはない。
批判するわけではなく、僕には合わないと思うから。
時間がかかろうとも、たとえ治らないとしてもケミカルを身体に取り入れたくはない。
そして、感覚が戻らなかったとしてもそれはそれで新たな食事を楽しむことができる。
それは今までヨガによって目覚めさせてくれた感覚が、食事は味だけでないことを教えてくれたから。
そして、ヨガによって動きにくい精神を養ってもらっていたから。
ヨガとはアーサナじゃないとはよく言うけれど、本当にそうだ。
もちろんアーサナは正しい知識を理解するためには必ず必要なものだし、アーサナせずに気づけないことはたくさんある。
でも、アーサナやヨガの知識を学び、その知識を自分のものとすることにより僕は今回のこの感覚を手放すということを楽しむことができている。
きっとヨガの本を読んでや、クラス、TT(Teacher Training)を受けて、
「ヨガとはどんなことにも心を乱さず受け入れることですよ。」
と教えられていたとしても、日々のプラクティスや、瞑想、知識の理解がなければそんなのは飾りで終わってしまう。
今の自分がどれほどヨガを理解しているかなんて正直誰も分からない。
いくら勉強会に参加しようと、いくらアーサナを熱心に取り組もうと、それは見えないのだ。
インドで有名な先生にヴェーダの知識を学んだからと言っても、インドに毎年通ったとしても、たくさんのTTの資格を取ろうとも、毎日自然を眺めているだけのおじいちゃんのほうがよっぽど宇宙の法則を理解しているなんてこともあるだろう。
ただ、今回の出来事により、僕の心は昔よりきっと強くなっているのだなということだけは分かった。
きっとヨガに出会っていなければ大好きな食事を失ったと相当落ち込んで、もしかしたら一生このアクシデントを後悔していたかもしれない。
マジか。と思った3文字分くらいの時間ちょっとびっくりしただけで、実際は一切落ち込まずにすんだ。
最初にも書いたけれど、
結局何も変わらず今日もハッピーだ。
今も仲間と毎食毎食、何を食べるかを真剣に考え、手を抜くことなく食事を楽しみ、
今までの味の記憶を使いながら美味しい料理だって作れている。
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何の心配も、大丈夫?の言葉もいらないくらい毎日楽しんでいます。
どうしても、感覚がもどっていない今だからこそ伝えたいヨガの恩恵なのでか書かせてもらいました。
もし、感覚が戻ってから同じことを書いても、ちょっと伝えたいことが薄れてしまう気がして。
失ったものはなく、手放して手に入れたもののほうが遥かに大きい。
シンプルになればシンプルになるだけ豊かになれる。

 

実際、髪の毛切りすぎちゃった〜。くらいのもんですからね。
すぐに戻ることですし。
今日は美味しいビリヤニをみんなで作ります。
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